にんじんをぶらさげて

夫の方は諦曲の稽古や、語学の勉強を隈日を決めて習いに行き、妻の方は、自分のやりたいお稽古ごとや、老人給食ポラγティアの仲間に入って、和食の調理を手伝っておられるという話だった。夕食の仕度も夫婦で限日を決めて責任分担。土限の夜は夫の責任で用意するそうである。夫婦一緒のときと、それぞれが別々に自分の楽しみを追求する使い分けが見事なのである。そのことを夫人の方に申し上げたことがある。「夫も私も心掛けて、自の前ににんじんをぶらさげるようにしているのですよ」彼女は、こういうウイットのある返事ができるところも九マトなのである。しかし、にんじんを追いかけているにしては、彼女の駆け出し方は、息切れしているようにも見えないし、たづなを締め過ぎているところもない。ましてむちを使って自分の限界を越えて頑張っているところもない。たとえば髪の染め方も、彼女の個性を生かしたスタイルを取っているが、わざと全部染めずに前のある部分に白いところを残している。それ以外を落ち着いた栗色に染めているのが、かえってナウイ感じであるし、着物にも洋服にも似合う。年を重ねた人が、相当の部分が白くなっているのを無理して黒々と染めていると、生え際が少しずつ白くなってくる。それはかえってあわれをもよおす。その点、わざと飾りのように白いところを残して部分染めをしておくと、少し白いところが出はじめてもバランスがとれてそれなりに美しい。まさにおしゃれ染めである。年齢、環境にふさわしいにんじんを「にんじんをぶらさげて」とおっしゃるが、彼女には、無理して若く見せるとか、自分の立てたスケジュールに振り因されているところがない。まして定年になって何となく心寂しくなりがちな夫を邪魔ものにしたりするところが少しも見受けられない。年齢や、自分の生活環境に合わせて、それなりに生きがいや少しだけ自の位置より高い目擦を立てるというのは、簡単なことではない。友人がしたからと真似もできないし、できもしない理想だけのプラγやライフワークは、すぐに続かなくなる。子育てに追われている二十歳代や三十歳代は、子供に振り因されて勉強する余裕もない。まだ私は若いからとか、子供が大切だからと思っているうちに、子供は一日一日大きくなり、少しずつ親の手を離れていってしまう。夫が提げているにんじんが何かを横目でちらちら見ながら、自分にふさわしい大きさのにんじんを提げていかなくてはいけない。