夜もほとんど寝ない日

「やっとこれからは好きなことができるわ」ところが、それから一か月も経たないうちに、今度は「大変に元気な人」と言っていた閥均が半身不随の病に倒れてしまった。入院の一か月が過ぎて、もう、男を一人で大阪においておくことはできないと、東京の自宅に引き取っての看病がやはり二年近く続いた。その聞の苦労は、第三者から見ていても、よく頑張れると思う程であった。関もとうとう亡くなられた。そして数か月後、彼女は、突然、「写真の専門学校に入学しました。もともと若い男性が、プロの写真家になるための学校なので女子学生は少ない上に、五十歳の女性は初めてと言われてしまいました」恥ずかしそうに、でも、本当にうれしそうに話してくれた。「写真の専門学校」とひとくちに言っても、ピγとこないが、重い写真の道具をかついで学校に行くだけでなく、現像、引き伸ばしなど、自宅の押入れの中に作った暗室ともいえない小さなスベ1九の中で、長時間こもって、作品を作って練習をしなければならない。学校の試験はもちろん、しばしば出すレポート、そしてそれにつけて出す沢山の写真の用意。たまに会ったとき、説明してもらうだけでも大変なのがよく分かった。学校外でしなければならないことが沢山あって、家庭のためにさく時聞を作るのは、本当に難しかったようだ。夜もほとんど寝ない日が二、三日続くこともザラであったらしい。それにしても妻の立場の加山さんが、なぜ、若い人にとっても相当に覚悟のいる勉強を始めたのだろう。加山さんの三年にわたる虫、姑の君病と世話が、彼女の勉強できる条件作りの基礎になったらしい。く彼女を支えた。たとえば、ゴ1ルデγ・ウィークなど、自分が数日続けて休めるときは、「ともかく僕が家にいるから旅に出なさい」と押し出すように、看病からも、家からも解放してくれたそうである。私も、一度、加山さんご夫妻が、かなりハイクラスなレ九トランで、二人だけの夕食を楽しんでいる姿を見かけたことがあった。病人が昼と夜をとり違えて、彼女が夜中ずっと起きていることもしばしばだっただけに、大学生と高校生であった子供さんも積極的に手伝い、母親の手を煩わせないように自分のことは何でもする暮らしに慣れていった。妻の勉強が夫を刺激する加山さんが宕病当時、「看病しているときは、やる以上は、なるべく穏やかな気持ちで接するようにしていました。夫や子供が手伝ってくれて、僅かな時間でも病人から解放されたのです。